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青が散る

 

 

 

青が散る テニス名場面集 その三

 

「『頼むぞ、死んでもポンクに勝てよ。それでダブルスは俺と組んで予選に出よう。』」

安斎が心の病で抜けた後のテニス部男子No1は燎平たちの一つ後輩、「ポンク」こと柳田憲二だ。高校時代関西ジュニアベスト16の実績を持つ。ポンクは二回生になり、親に車を買ってもらい、彼女も出来て、ドライブデートに忙しく、練習を無断で休むようになった。昭和40年代の大学体育会が舞台である。キャプテン金子がそれを許すはずもなく、練習の無断欠席を責め、さらに自動車通学と彼女との交際も禁じた。練習の無断欠席の件はともかく、デートと車まで禁止されることに納得が行かないポンクは公然とキャプテン金子に反発するようになる。そんなポンクに金子は「燎平と試合して勝てばデートと車通学を認める、しかし燎平に負けたら言うことを聞け」と交換条件を突きつけ、自信満々のポンクはそれを受ける。スランプの燎平は「俺をさらし者にする気か」と金子に詰め寄るが、そこで金子は上記の台詞を燎平に言う。
金子はいいリーダーだ。人と拘ろうという意思がある。反抗してくる後輩に関しては反抗に対決することで向き合い、スランプの仲間には大事な試合を任せることで覚悟と自覚を促そうとする。そして貝谷かポンクと組めばインカレ出場の可能性があるにも関らず、「このテニス部は俺と燎平で作ったんや。最後の試合は燎平と組む。」といって、燎平に共に同じ目標に向かって行こうと力づける。反抗するやつ、自分で勝手に駄目になっていくやつ、こんな連中にはどうしても「かかわりたくない、放っておこう、個人の問題だ、俺には関係ない」と背を向けてしまう。しかし、金子は向き合って、しっかりかかわろうとしている。リーダーとはこうでなければならない。

 

「『おい、燎平。今日は何が何でも勝つんやぞぉ。どれだけマッチポイントを取られても、逃げて逃げ切って逆転するんや。テニスはマッチポイントを取ってからが苦しいんや。一流も二流も関係ない。あきらめるやつが下であきらめんやつが上や。そやから二流の上は一流の下より強いんや。』」

「青が散る」のテニスシーンで最大のクライマックス、ポンクVs燎平戦が始まろうとしている。試合に向かう道中で燎平は2年の夏合宿で貝谷が安斎を破った試合を思い出していた。一度もポンクに勝った事がない燎平にとって、「弱者が強者に勝った」実例として貝谷・安斎戦は希望であり勇気を与えてくれる存在だ。その貝谷が部室の前で燎平を待っていた。そして、静かな口調で燎平に気合を入れさせる。

 

「『ポンクは背が低い。そやからサーブにスピードがない。その弱点を補うために、スライスとスピンを使い分けよる。右コートからのサーブはスライスで、左コートからのはスピンや。そやけど、そういうサーブはコーナーに入らん限り恐いことないんや。ああいう回転のかかったサーブは思いっ切り打ち返せよ。臆病になって、ただ当てて返そうと思うと、ボールが浮いてポンクに押しまくられるんや。』」

貝谷がリターンでのアドバイスを燎平に伝える。回転系サーブに対する基本であるが、強い言葉で試合直前に確認することは効果的だ。

 

「『あいつの武器はストロークだけや。とくにフォアハンドの逆クロスは凄い球を打ってきよる。スピードはあるし、バウンドしてから滑ってくる。そやけどあいつはバックハンドはスライスだけしか打たれへん。この三つを忘れるなよ。背が低いということはサーブが弱いし、ネットについたときの動きの範囲が小さい。スライスでしかバックハンドが打てんということは、深い球さえ打っといたらポンクは攻撃に出てこんというわけや。それにもう一つ。これは一番大事な点やぞ。』貝谷はさらに声を落として言った。『あいつは所詮ボンボンや。それも大金持ちのボンボンと違う。プチブルのボンボンときているから、弱い相手には強いけど強い相手にはアホみたいに弱いんや。そやから今日は徹底的に精神のゲームをするんや。』」

貝谷は後輩ポンクを冷静に分析してみせる。「サーブ・ネットが弱い、バックはスライスだけ、競ればメンタルの弱さを露呈する。」と。燎平もなんとなくは分かっているだろうが、こうして具体的に言葉で伝えられることで、ポンクを「強い相手」から「弱点を攻めれば勝つ可能性のある相手」として見直すことが出来る。貝谷の「勝ってくれ」とういう熱い思いも同時に伝わってくる。

 

「きょうは丁寧にバックハンドを打とうとまず思った。必ずボールの下を見て打つこと。そうすれば自然に腰は落ちて、凡ミスの数は減るだろう。それから絶対にポンクにフォアハンドで打たせないこと。最初から最後まで、馬鹿みたいに相手のバックに打っていこうという作戦だった。そしてネットにつかれたらポンクにバックのハイボレーを打たせるということだった。」

試合直前、燎平もまたこの数日考えていたことを頭の中で復習する。貝谷の分析の中になく、燎平がポンクに対して知りえた情報として、ポンクがバックのハイボレーを極端に苦手にしているということがある。敵の弱点を突く。勝負の鉄則である。燎平はそれを今静かに自分に言い聞かせている。試合前に今日この試合で自分がするべきことを頭の中で再確認する儀式は必要である。

 

「ときおり短い球を打ってネットにおびき出そうと思っていた。同じネットにつく場合でも、アプローチショットを打って突進してきたときと、短い球を打たれて前におびき出されたときとは、微妙に心理状態が違うものであることを燎平は知っていた。」

ラリーではポンクのバックにボールを集め、ネットに誘い出し、弱点のバックのハイボレーを打たせる。これが燎平の作戦。確かに自分の意思とは係わりなく結果としてネットに出会っときは微妙に不安なものだ。しかし、短い球でネットにおびき出すとはそんな簡単なことではない。短いボールがネットより高く弾むと叩かれるし、角度があるとショートクロスを打たれる。確実にネットにおびき出すためには高度なボールコントロールが必要だ。それが出来るという時点で、燎平はかなりのテクニシャンである。

 

「『弱きはくじけ、や。みんな覚えとけよぉ。勝負の世界は、絶対に弱きはくじかんとあかんのや。手加減してうっかり負けたりしたら、もう二度と勝てんようになるんやぞ。』」

燎平たち3年生が去った後の部室でポンクが後輩達に演説を打っている。小説の中では悪役であるポンクだが、ポンクの立場を思うと、彼もまた苦しい立場にある。格下相手に大事な試合で必ず勝ち切るということは難しいことだ。彼自身、安斎が抜けた後のエースとしての力量を問われているのだ。

 

「燎平はここ数ヶ月の猛練習で、自分にサーブ力が付いていることを知っていた。第一サーブをフォールとした後、ダブル・フォールトを避けるため、極端に慎重なセカンドサーブを打つことは、かえって危険であることが判って来て、そのために燎平は、毎日、ファーストサーブ用のトップスピンのかかったサービスと、セカンドサーブ用のスライスのかかったサービスの練習を、それぞれ三百球やり続けてきたのだった。」

ファーストとセカンドで極端に威力の違うサーブを打つと逆に不安定になる。一日600球のサーブ練習、しかも半部の300球はセカンドサーブの練習をしてこの試合に臨んだ燎平。サーブの練習をするとファーストの練習ばかりしてセカンド用サーブの練習はおろそかになるが、これだけやらないと安定したサーブとは打てないのだ。

 

「燎平は金子の胸を押した。あっちへ行ってろ、俺は勝ってやる、俺がどんなふうにして、一度も勝てたことのないポンクを追い詰めるか、黙ってみていろ。燎平は自分の目が異様に吊りあがってるのを感じたが、不思議なくらい静かで落ち着いていた。」

ポンクにバックのハイボレーを打たせミスさせる作戦が功を奏し、ポンクのサービスゲームをブレークすることに燎平は成功する。しかし、燎平の意図に気づいたポンクはバックのハイボレーを準備してネットにつくようになり、立て続けにバックのハイボレーを決め逆転する。心配した金子が燎平に作戦変更を進言するが燎平は取り合わない。この後、ポンクがネットに出ても燎平はボールを散らし、大事な場面のみバックのハイボレーを打たせる。「苦手は苦手なのだ、大事な場面で必ずミスする」断固たる決意で作戦を押し通す決意をする燎平。クレバーな頭脳と熱い闘志が人を強くする。

 

「ポンクはきっと負けるぞと思った。あいつはまだ第一セットも終わらないうちから、とっておきの切り札を出しやがった。あいつは怯え始めたのだ。負けるかもしれないと心配になってきたのだ。俺が恐くなってきたのだ。」

ネットにおびき出され、大事なところでバックのハイボレーでミスさせる燎平にポンクはリードを許し、5-4にされる。チェンジコートですれ違うときポンクは燎平に「佐野夏子さんの恋人の名前を教えてあげましょうか。椎名さんのよう知ってる人ですよ」と燎平に告げる。燎平の片思いの相手、佐野夏子が燎平の知らない男を好きになりかかっているということを燎平は知っていたために、動揺してしまうが、同時にポンクが精神的に追い詰められていることも知る。
派手なガッツポーズや挑発的な言動、あるいは褒め殺しなど相手を動揺させようとする姑息な手段はいろいろとある。しかし、同時にその手段を使うということはテニスで勝つことが難しいと相手が考えているからだ、相手はおびえているのだ。試合中、そう考えられるクレバーさが欲しい。

 

「思いがけない出来事で、大切なことを忘れていたのに気づいた。ボールの下を見て打つという一点であった。」

激しい攻防の末、第一セットを6-4で先取した燎平。しかし、第二セット、気持ちを切り替えたポンクはしっかりとストローク戦で打ち勝ち、苦手のバックのハイボレーも何度も決め、あっという間に5-0にしてしまう。相手に行った流れをどうやって引き戻せるのか。チェンジコートで考える燎平。そして、試合前、確認したことのうちの一つ「ボールの下を見て打つ」事を忘れていることに気づく。
3セットマッチだと、流れが行ったりきたりする。そんな中で自分を取り戻す機会があるだろう。しかし、実際の草トーナメントの1セットマッチでは流れが決まれば一気に決まってしまう。最初の確認事項を忘れず、常に思い出せるように、チェンジコートの時間は大切に使わなければならない。

 

「あんな凄いサーブを打ったのは初めてだ。練習したからだ。ひたすら練習してきたから、自分で知らぬうちに、あんなサーブを打てるようになっていたのだ。テニスはサーブだ。ファイナルはこの三年間、もう何万球も打って打って打ちまくって練習してきたサーブを必ず入れてやる。燎平は第一セットも第二セットも十の力でサーブを打っていなかった。パーセンテージを重視して、とにかくフォールとしないことだけを考えたからだ。だがポンクを再び怯えさせるには、もうサーブしかなかった。十の力、いやそれ以上の全身全霊のこもった力いっぱいのサーブを臆せず、堂々と打ってやる。小手先の作戦なんかで、俺がポンクに勝てるものか。俺は王道のテニスをするぞ。夏子が何だ。自分の弱さが何だ。俺は死んでも勝つ。俺は死んでも勝ってみせるぞ。」

第二セットを1-6で落とした燎平。しかし、自分のサービスゲームを一つキープする。その最後のポイントをサービスエースで取った。そのことが燎平に自信を与える。セットを失い、自信を失いかけていたところへすがり付くべき武器を手に入れ、息を吹き返す燎平。再び断固たる決意で第三セットに臨むのだった。
成長は努力と比例して結果が出るものではない。階段状にある日突然開けるものだ。その日まで、迷わず、諦めず努力し続けられるかが成長の鍵となる。そして、努力の結果手に入れたものが自信を与える。そこまで一つのことに打ち込める若さがうらやましい。

 

「自分のサーブを落としたことで、燎平の計算とさっきまでの決意が崩れそうになった。燎平は自分を叱咤した。次のポンクのサーブを取って、その次のサーブを取ったら、それで帳消しだ。6-4で俺が勝つ。」

ポンクのサーブから始まるこのセット、最初のゲームを何が何でもブレークして、後はこちらのサービスゲームを全てキープして勝つ。そういうプランを持って第三ゲームに臨む燎平。最初のゲームを予定通りブレークする。しかし、直後の第二ゲームで審判をしている貝谷のミスジャッジと自らの力みよるダブル・フォールトで自分のサービスゲームを落とす。予定が狂い、挫けそうになる自分を奮い立たせる燎平。なまじ、シナリオを書いてゲームに臨むと、シナリオが崩れたとたん挫けそうになるが、そこで崩れず、強い気持ちを維持し続けるメンタルが接戦を制する鍵になる。

 

「燎平は貝谷の言葉を思い出した。ポンクはバックハンドではスライスしか打てない。そうだ、ポンクはバックハンドではスピンのかかったロブは打てない。」

バックのハイボレーをミスさせる作戦で再びポンクのサーブを破ることに成功した燎平。その後、渾身の力を込めたサーブを打ち続け、自分のサービスゲームをキープし続ける。そして5-4でついに迎えた燎平のサーブ・イン・フォー・ザ・マッチ。ダブルフォールとリターンエースで2ポイントを先行されるもサービスポイント二つで30-30。勝負を決める大事な次のポイントは長いラリーになる。ネットに出る機会を伺う燎平、そこで貝谷のアドバイスを思い出す。ポンクのバックはスライスのみ、ポンクのバックに強打して出れば強いパスもスピンロブもない。燎平はポンクのバックに打ってネットに出る。しのぎのスライスロブを上げるしかないポンク。それを予想してスマッシュの体制で待っていた燎平はスマッシュを叩き込みマッチポイントを得た。

 

「前におびき出して、最後のハイボレーをさせてやる」

第九ゲームでバックのハイボレーを4回連続で決めてサーブをキープしているポンク。そのポンクに対し、マッチポイントであくまでバックのハイボレーを打たせる作戦をとる燎平。「最も大事な場面で、人間は自分の苦手を暴露するものだ」と厳しく勝負師として相手の弱点を徹底的に突く。強気の燎平。精神的な主導権は明らかに燎平が握っていた。燎平にネットにおびき出されバックのハイボレーを打たされるポンク。ボール二つ分明らかにアウトし、燎平が勝利した。
3時間40分、終始、自分の立てた作戦を信じ、揺らがず、強い気持ちで貫いた燎平の素晴しい勝利だった。

 

「『勝ったな』と老教授は言った。
『先生ずっとそこで見てたんですか・・・(中略)・・・テニス、お好きですか』
『テニスは知らん。ぼくはスポーツをやったことがない。しかし、今日の試合は楽しかった。君は十分よりうまいやつに勝った。それぐらいは、ぼくにもわかるよ。ぼくはここで無言で声援をおくっとったんや。』」

遠く校舎の3階にある教官室から双眼鏡で燎平とポンクの死闘を見ている老教授がいた。燎平の英文学の講師、辰巳教授である。無断で授業を休んだものを二度と講義に入れない厳しい教授。その教授に無断欠席を謝罪し、二度としないと誓約したうえで許された燎平。その後も授業のたびに燎平を当てるこの教授が、燎平の試合を見守っていた。そして、勝利した燎平に「勝ったな」と告げる。
単なる部活での練習試合である。対外的に何の評価もされない。しかし、燎平にとっては大きな意味を持つ勝利だった。それを見守り、評価してくれる人がいる。こんな幸せなことはない。


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